令和4年6月1日より Part 2 を開設しました 

令和7年の 幅下・那古野・江西学区の合同成人式は 1月12日(日)です

最終更新日: 令和 6年 4月 19日

 2024年1月 開 設  筆 者 の コ ラ ム ( 月1回の掲載予定 )

【 NHK 名古屋放送局 】 名古屋城を お堀から眺めてみると ...

( 参考事項 ) 幅下学区の 幅下の由来について 解説を致します。

清須越(きよすごし:慶長15年(1610))により行われた清須からの町ぐるみの引越しである名古屋への遷都,この年から始まった名古屋城の築城は 慶長17年までに天守閣が完成しました。

当時は,この高台の地を幅上(はばかみ)と呼んで,南西に新しく開拓した地を 幅下(はばした) と名付けたと謂われて居ります。

4月8日に,なごや小学校で 統合10年目の入学式が開催されました。

御子達(おこたち)の 小ささには驚きました。 守ってあげるね!


幅下公園にて 咲き始めた 蜂須賀桜 です。この桜は,乙女桜の名で徳島県徳島市の徳島城御殿にあった桜で,江戸時代には門外不出の桜として徳島藩主に大切にされていた 歴史的な価値を持つ桜であります。

新年度を迎えました。 どうぞ,宜しくお願い申し上げます。

令和6年度 幅 下 学 区 区 政 役 員

静かに行く者は 健やかに行く

健やかに行く者は 遠くまで行く

だめでも やっていれば 必ずできるさ

やめれば 永久にできぬ ただそれだけのことさ

魔とは 人を一事に熱中させるもの 一事に偏執することなどを指す


昨年度,堀田が取材致しました ちっちゃいものクラブの様子です:


3月27日には,ふれあいカフエで三味線の演奏会がありました:

荘川桜(しょうかわざくら),斎藤道三が ゴルフ帰りに持って来た桜:


3月24日には,幅下コミセンまつりが開催されました:

幅下公園内に咲く 荘 川 桜 の様子です:


西区役所から令和6年3月発行の冊子 ( 西区 地域力推進室が担当 )

この冊子は,西区役所3階の地域力推進室で配布されて居ります。
素晴らしい小冊子の pdf を作成してみました。 宜しければ どうぞ:

筆者は,11ページ目にある【 大乃伎・蛇池散策コース 】に興味が引かれました。 大乃伎神社 (所在地:名古屋市西区大野木2丁目233)

『延喜式』神名帳(927年)の山田郡太乃伎神社(オホノキ)に比定される神社。多分,西区 大野木学区の由来は 乃伎にあると思います。


はしか感染広がる コロナ禍余波でワクチン接種率が低下

2024年3月17日 5:00 (日本経済新聞)

はしかの感染が相次いでいる。2024年の患者数は すでに20〜22年各年の感染者数を上回った。背景に世界的な感染拡大がある。新型コロナウイルス流行期にはしかのワクチン接種率が下がった為で受診を控える動きが広がった日本も同様の状況にある。感染力が非常に強く重症化の恐れもある。国は予防接種の徹底を呼びかけている。


3月12日の幅下学区連絡協議会で山田淑子女性会長から,会員の高齢化と会員の新規加入不足の為に,名古屋市女性会と西区女性会から退会の御報告がありました。 長い間 ありがとう 御座いました。

筆者は,自宅に帰り ビールを飲みながら 涙が溢れ出て参りました。

ここに,名古屋市地域女性団体 研究協議大会 令和2年2月13日イーブルなごや 会場での動画を御覧くださいませ:

会場で,初めて名古屋市女性会 加藤玲子会長に御会い致しました。

婦人新聞の頃から,写真で拝見,綺麗な御方だけど近寄り難い方だと感じていましたが,御会いして その旨をお話しすると『いまの,おばあちゃんと どっちがいいね?』とお尋ねになられたので『おばあちゃんの方が いいです 』と答えると,にっこりと微笑(ほほえ)まれた女性会での 超巨星 加藤玲子 名古屋市女性会 会長 でした :

継 続 は 力 な り ( 名古屋市女性会 加藤玲子 )

永遠の命を持つ 火の鳥 の如く 若い世代により蘇って参りますよう

火の鳥( 人類と地球の歴史を見守り続ける不死の鳥 )は,漫画家の手塚治虫氏 が自らのライフワークと認めた作品である。





幅下(はばした)学区 へ の ご 紹 介

幅下公園北側に新設されました 美濃路みち案内板 ,赤丸印 が現在のコミセンの位置

幅下学区は 名古屋市西区の城下町に御座います。

名古屋駅と名古屋城の間に位置します。

能楽堂 横の赤丸が 巾下門跡,左の赤丸が 巾下学問所址


そして幅下学区の名前の由来は,古くは 1748年(寛延元年)の

巾下学問所(寺子屋)開設に依ると謂われて居ります。

設置場所は旧 鷹匠町の国道22号線沿い 堀川(巾下橋)の近くにあります。

ここから,徒歩5分程で名古屋城の有名な 巾下門跡 に行きます。

名古屋城 城郭の西入口(正門の西方側)の 巾下門跡 になります

現在では,門跡に石垣だけが残っています。
右手には名古屋能楽堂があります。

さて巾下学問所は現在の どのあたりに具体的に存在したのでありましょうか?

調べている時に偶然に見つけました【 名古屋市役所発行の名古屋市史地図編(昭和43年9月)】からの,江戸時代の名古屋城の周辺地図が役立ちました。

 

朝日橋から五条橋までの堀川西岸には北から小舟町,堀江町,塩町,大船町,その西には四間道などの地元の方々には懐かしい地名も見えます。また,五条橋西側には慶栄寺、高田本坊(御本坊),円頓寺などの御寺も確認されます:

朝日橋の南西部には,江戸時代の築城建築関係の役所である「御作事(おさくじ)役所」があり,名古屋城は1610年(慶長15年)に築城が開始されて1612年(慶長17年)までに大天守が完成しました。そして,1748年(寛延元年)この場所に 巾下学問所 が設置されたと史実では述べて居ります。

 

この地図を見ると,幅下学区に関連する堀川への橋は江戸時代には『 朝日橋と五条橋 』の2つのみで,巾下橋は当時 存在しなかったことが理解出来ます。

国道22号線にある巾下橋の南東から北西方向を望む

朝日橋は,現在の巾下橋の北側に位置する古くからの小さな橋であり,江戸時代には城西地区および幅下地区に居住した数多くの武士が名古屋城への勤めの為に朝日橋を往来したことでありましょう。

朝日橋を西から東に渡ると左手側には城への西入口の 巾下門 が見えました。

【 現在の朝日橋を西側から撮影 】

当然,巾下橋の片側4車線の広い国道22号( 道幅35メートル程 )さえ存在しなかった時代なのであります。


以上の考察を踏まえて,次の図の緑の斜線部分 巾下学問所が存在したものと推測されます:

東西25メートル程,南北40メートル程の敷地面積 約1,000平方メートルの土地に 巾下学問所 がありました。

学 区 周 辺 の 写 真


名古屋市立なごや小学校

 

これまでの江西小学校,那古野小学校,幅下小学校が統合されて,新校舎は3校のうち広い敷地が確保できる幅下小学校を解体後に北隣に隣接する幅下公園と合わせて再整備を行って平成27年度より名古屋市立なごや小学校としてスタートしました。平成29年4月には,現在の新校舎が完成致しました。

学校の敷地面積は1,440平方メートルです。


なごや小学校の校章です。三つの小学校が合併して出来ましたので Nagoya の N  が三つ重なっている様なデザイン と成っています。

なごや小学校の正門右手側に位置する,なごや小学校の標語の石碑です。

この石碑の裏面も見てみましょう:

ここには,この石碑建立の由来が記述してあります。

【 幅下コミュニティセンター 】

 

なごや小学校から徒歩5分の場所です。

 

幅下学区連絡協議会の拠点に成ります。


コミュニティセンター内には,以前に幅下小学校にありました石碑が飾られてあります。

上の石碑の左側からも確認出来ます幅下小学校(創設1872年・明治5年)の校章です。これは『巾 下』の  から円状の部分が, は円内に入る変形文字にて構築されています。

( 昭和の時代の小学生は,この校章を分数の5分の1と読んでいましたね。)

この校章からも,嘗ての『 巾下学問所 』の伝統が深く感じられます。

平成4年11月に迎えた幅下小学校・開校120周年記念の時に,幅下学区の全世帯に配布されました記念の航空写真の下敷きです:

【 参考資料 】PTA だより 第32号『 開校120周年記念特集 』より

続いては,幅下小学校閉校記念誌「幅下校」(平成27年3月)の表紙です:

題字「幅下校」は明治20年ごろ本校を参観しました山岡鉄舟の筆です:

「 東海 第一の学校なり 」と賞嘆して大額に墨文字を書き残しました。

     【 山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)の逸話 】
土肥樵石という書家が鉄舟に「 わたくしは,字は一画三折の法をもって書きますが,先生はどういう法でお書きになりますか? 」と尋ねたところ,「 わしは無法で書く 」と答えました。

西郷隆盛のたっての依頼により,明治5年(1872年)に宮中に出仕(しゅっし)して 10年間の約束で侍従として明治天皇の教育係を務めました。

そして,その人間性は西郷隆盛をして「 金もいらぬ,名誉もいらぬ,命もいらぬ人は始末に困るが,そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない 」と賞賛させました。

幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である 勝海舟,高橋泥舟 とともに『 幕末の三舟 』と称されて居ります。

この額は,なごや小学校で大切に保管されて居ります:

【 なごや小学校 メモリアルコーナー にて 】


浅間町の国道22号線沿い交差点付近にあります【 西区史跡散策路 城下町散策コース 】の案内板です。

1964年の東京オリンピックのときには浅間町周辺に小学生が日の丸の旗を持って並んで,国道22号線上を東京へ向かって走る聖火リレーを旗を振りながら見送りました。


幅下学区の11区塩町と11区大船町の間に架かる堀川への五條橋

 

嘗て,海部郡清須城下の五条川に架けられていた橋を,清須越(きよすごし:慶長15年(1610))により行われた清須よりの町ぐるみの引越しである名古屋への遷都の際に,この地に移されもので橋の名前もこれに由来します。

尚,この年から始まった名古屋城の築城では慶長17年(1612)までに大天守が完成致しました。

堀川に架かる橋の袂,北側にあります五条橋への案内板です :